貯金箱と足るを知る
専門学校退学後のフリーター時代、週末3連勤のバイトを終えるとよっぽどの事がない限り僕は彼女の家に寄って遅めの晩飯を食べていた、そして食事中に必ずすることがあってそれは3日分のバイト代(即日現金払い)を彼女の家にある筒型の缶でできた貯金箱に入れていてバイトを始めて3、4か月毎週貯金をしていたそれは確実に増えていて筒の中にある丸まった万札の厚みがだんだんと増してきた。たまにカフェにデートに行く以外はタバコ代にしか消えない僕の出費からしても週三日のバイトだったが結構なスピードでお金は貯まっていった。 自分ではかなりの浪費家、いつも衝動的な買い物をする人間だと思っているがバイトをしていた時期は不思議と浪費癖はピタッと止まった。今思えば当時は全ての思考、感情が目には見えない人生の不安に向けられ物質的なものでは何一つ解決しない事を無意識のうちに感じていたからだろうか?それはある意味充実していたのかもしれない。それは何も悪いことじゃない、非物質的なもの…それは哲学なのか思想なのか超常現象なのかは分からないがそれを探求するとしてもその為の教材のような本にはブランド品のような値段は付いていないので結果的にあまりお金を使わない。思い返せばお金をよく使っていた時は内省的に過ごした日常はなく案外何も考えずものを買っていることが多かった、CDや服、その他諸々…ただ物を買っているだけだが何かしたような気になる、もちろんそれが欲しくて買いに行っているし買って満足しているが本当に欲しかったと言えばそうでもなく小さくない罪悪感も感じていた。というかそのために家を出る事、おしゃれをする事、お気に入りの服で電車に乗りながらウォークマンを聴いている行為が好きだったんじゃないかな。今現在それと似たようなことが僕に起こっていて何かというと例えばユーチューブだろうか、為になる動画もあるが大体はクスッと笑える動画を観てそれで終わり…だけど観ている時は楽しいし満足もする、が観え終えた後は何というか大切な時間を無駄にしているんじゃないかと少し背筋が凍る、タダほど高いものは無いとも言うし…それでも自分の時間をそういう事に費やしている時は贅沢な気持ちになれてその時間は確かに楽しい。何を言いたいかというと最近もやもやとした感情がありそれはずばり僕は今充実しているのだろうか?昔は服やCD、今はユーチューブ、自分にとってこれらは似ていて結果的に自分を楽しませてくれるが満足させることは出来ない、間違っているかもしれないけれどどちらも僕の中でとても物質的なものであるとだんだん分かってきた。精神に何一つ作用されない。僕にとって充実するとは非物質的な満足感で学校を辞めた後の社会的な持ち物はないけど色んな不安に悩まされ精神的にもがいた時期がそれはそれで非物質的な欲求は満たされていたような気がする…焦る気持ちでさえ若さも相まって活力もあったと思う。精神を落ち込ませる程の時間があるのは問題だが自分が自分の時間に関わっていく場所や事が大切で意味もあるんじゃないかと最近思うようになってきた。イメージ的には健康な身体を土台にした心の充足…筋トレは今までと変わらずする事。タバコを捨てる日はいつになるやら、こんな支離滅裂な文章を自分で書きながらあらためて自分の言語能力のなさ、無から無しか作れない不全感、意味のないこだわりがあってただ脳みそが煮詰まりバタンキューしてしまういつもの自分に嫌気がさしてくる。