精神病院
父親に勘当されかけた次の日の朝、僕は父親に申し訳ない気持ちでいた、父親は僕の将来の事を考えて怒っていたに違いないから。家から出ていけと言ったのは極端な発言だとは思うけどそのまま学校を辞めるなよって言うことだと思う。今まで生きてきてあんなに父親から罵声を浴びせられたのは初めてだったし、ドア越しでもすげー怖かったから直で対面するなんて出来なかった。でも朝起きて昨日の自分が父親と向かい合わなかったことが失礼だとも感じたから。僕はわざと父親が起きてくる前に1階へと下りていきオーブントースターにパンを入れて父親が下りてくるのを待っていた。父親を出迎える形で自然と状況を作ったのだ…父親が僕に声をかけやすいように。朝からまた怒鳴られる事はないだろう、でも学校を辞めるなよとは言われるんだろうなと思っていた。しばらくすると1階に下りてきた父親がオーブントースターとにらめっこを続ける僕の耳元でボソッと「昨日はごめんな…」以外と思ったと同時にピンときた、母親が昨日の夜父親に今の僕の状況を伝えてくれてたんだなぁと…あんなに怒声を上げて喚き散らした夜から一晩しか経っていないのに「昨日はごめんな」の言葉から父親の合理的な性格と今の僕の状態の酷さがよくわかった。父親からしたら息子は今めちゃくちゃ大変な状態にあると… その朝父親が発した言葉はその一言のみ、僕は父親の目を見ず軽く頷き小さく「うん」という返事だけ。暫くして父親は仕事に出かけた…。
そういえば夏休みに入った…去年とは全く違う波乱の幕開け。
ひなが一日PS2でグランド・セフト・オートをしながらタバコを吸いまくり、週3日のバイトにはちゃんと出ていき徐々に学校という縛られたものからの解放感を味わっていった。夏休みから1週間ほどたったところだろうか?月曜日の朝母親から心のお医者さんに行ってみない?色々話をしてそして色々聞いてくれるから…あなたが心配だからみたいな感じで優しく諭された。僕は快諾。その時自分が医者にかかるほどの事か?とは思っていたが、学校を続ける意思がないことプラス腕に無数の切り傷があるのなら客観的にみてヤバい状態なんだなぁとは理解できるから。母親に諭されるまま取り敢えず身支度をして…カバンはいらないか…財布と携帯と鍵くらいか…
今思えばその日母親は仕事を休んでくれてたんだ…子供の頃朝から母親に付き添い病院に行った事は何度もある、風邪、インフルエンザ、何科なのか覚えていない病院etc…小学校を休み集団登校も勉強もせず母親と二人で病院へ行くことがすごく懐かしい。もうすぐ二十歳になろうともいうのに。心のお医者さんなんて初めてだけど……家から病院まではタクシーで行くとのこと、8時位だろうか、タクシーが家の前にピタリと止まったのがカーテン越しに見える。祖父と祖母は毎日何かしらの病院へ通っていたので母親が誰もいない家の施錠をして二人してタクシーへ乗り込み後部座席右に僕、隣に母親。タクシーは住宅街を出ていつも見慣れた景色を僕に映しながら進んでいく。近所の喫茶店、タバコ屋、コンビニ、駐在所…時間的に朝の8時を過ぎているので学生は見当たらないし、ちらほら出勤途中のサラリーマンがいるくらい。
小さな頃に母親と学校を休んで病院へ行ったあの非日常が心をくすぐった。気分はそこまで落ち込んではいない、特に身体が痛いとかだるいみたいな症状もないのに…学校を辞めると決めてから僕の心はむしろ少しづつ軽やかになっていた、軽いというより軽すぎて掴めない、重みも感じない、だから心がどこにあるのか不安になる感覚…解放というより喪失感、何かを失っていく自分に対する悲しみみたいな、悲しみがあるなら心に重みも感じるはずだけど、なんともとらえどころのない変な気分、矛盾しているとも言えない、喪失感と悲しみの感覚が僕には心地よかった。なんというか陰も陽も、光と闇も、解放も束縛も、失うものも得るものも、全て全肯定出来そうな心の状態だった。
僕の住んでる街は起伏のある地形で大げさではなくジェットコースターのような高低差のある道路を目まぐるしくタクシーは走っていた。家から10分も走ると辺りは下町からオフィスビルや沢山の人が行き交ういわゆる街の中に入ってくる、そのまま市の中心へと向かうと思いきや街の外れの商店街側を北へ走っていき沢山のオフィスビルを背に静かな住宅街の中へゆっくり進んでいった。
タクシーが止まったのはなだらかな坂にある病院の前で門はやや狭く建物の入口までは10メートルほど、建物に向かって左側にL字型のスロープがありぱっと見では大きな病院には見えなかった。病院の大きさでいうと大病院でもないし、かといって町の診療所ほど小さくもみえない。《気になって調べてみるとその病院は北病棟40床程度、東病棟60床程度、西病棟100床以上あるみたい》母親が受付で受診の手続きを済まし暫くして僕と母親はとある診察室に通された。担当してくれたお医者さんは女性の方で挨拶もそこそこに今どういう状態か等の質問があったが何を答えていいか分からずリストカットをしている事は恥ずかしかったけど正直に答えた。カルテを時折見つめながらお医者さんが僕の左肩を見つめ切り傷を見たそうにしていたが母親とお医者さんに切り傷を見られる事に動揺し挙動不審になった僕を察して再び目をカルテに向けた。動揺したのは恥をかきたくなかったのだ。小さなことだがリストカットの事を深掘りしなかったお医者さんにはホッとしたし感謝している。僕があまり話をしたがらないので、診察室では母親とお医者さんの会話が多く内容もどこか事務的な感じだった。
診察を終えて会計が終わるのを椅子で待っていたがなかなか呼ばれない、ニコチンが切れてきたので一人病院の外へ出た。入口を出るとスロープ横で60代位の髪がボサボサの長い女性がパジャマ姿でしゃがみ込み一人でタバコを吹かしていた。まぁ病院の敷地内なので内心タバコはだめかなぁと思っていたのでホッと一安心。少し広い敷地内で同じ喫煙者同士言葉ひとつ交わさないが少しだけ女性の方に近寄りタバコに火をつけた。夏にしてはどこか涼しくまだ朝の静けさを残した影がかかる敷地内で二人は煙を空へ向けて吹き出していた。
消しゴムマジックで名前消しています(笑)